ワイが中学生になるタイミングで、年号が昭和から平成に変わった。
今回は中学時代の貧乏飯にまつわる切ないエピソードを一つ紹介する。そこには昭和ならではの、ねじれた空気と穏やかさが入り混じるメルヘンな世界が漂っていた。
担任の涙を誘ったボンビー?焼きそば弁当
中1の頃、一度だけだがオカンが度肝を抜く弁当をこしらえてくれた。いつものようにアルミ製の四角い弁当箱のふたを開けると、びっしり焼きそばだけが敷き詰められていた。
野菜や肉などの具材が一切ない、茶色いだけの『ぐなっしー焼きそば』だった。ちなみに油でガチガチに固まっていた。
当時は班ごとに机を向かい合わせにして昼食を食べていた。否応なく弁当の中身は丸見えになる。男子は「すげ~」「うまそ〜」、女子は「きゃははは」と朗らかに笑っていた。昭和の子供たちには何の悪意もなく、ワイ自身もちょっと笑ってしまった。
ただしそれを教卓から眺めていた担任Kは違っていた。
自分の弁当箱から卵焼きをつまみあげると、ワイの茶色い弁当の上にそっと置いて去っていった。とても優しい先生だったので、育ち盛りの中学生の健康状態を心配してのことだろう。
問題は担任のこの行動がクラスメイトの思考を覚醒させてしまったこと。班の子らが次々にワイの弁当におかずを提供し始めたのだ。
おにぎり、シュウマイ、ミニトマトなど、、いったい何が起こったのか?
茶色い風変わりな弁当が、一瞬にして貧乏飯判定に覆ってしまったのだ。ワイは感謝の気持ちと、ちょっ悲しい気分でそれらを頂いた。担任は満面の笑みを浮かべていた。
メルヘンチックな昭和の優しさだったかもしれない。決して悪い風潮ではないが、最近の日本を席巻する同調圧力の礎にも思えてくる。使い方を誤ると惨事を引き起こす諸刃の剣だ。
人間の思考の面白さと違和感に震えた中学時代の貧乏飯エピソードである。
マーガリンの空箱が弁当箱!?
我が家は母子家庭だったので、それなりに貧乏だった。しかし上には上がいて、弁当箱がマーガリンの容器って奴もいた。これはもう笑うしかない。
ただそれで卑屈になったりすることもないし、馬鹿にするようなアホもいなかった。それは面白いことの一つだった気がする。
昭和って今みたいに便利なモノで溢れた世界じゃなかった。田舎ではテレビ、冷蔵庫、洗濯機があれば中流だった。ここに自家用車が追加されれば、ややお金持ちっていう感じ。
現代ほど持つ者と持たざる者の格差に心を痛めることも少なかった。社会インフラの格差が小さく、多くの機会が平等に与えられていた時代である。
そんな昭和の遺産(エナジー)が後のバブル時代を経て消失したことで日本経済は地べたを這いずる事となる。
こんな未来が訪れるなんて夢にも思わなかった。
昭和の常識(あたりまえ)
世代間のギャップは時代のギャップ。振り返る時代はいつだって非常識なものである。最後に麗しき昭和の非常識(今となっては)をいくつか紹介して締めたい。
- カブトムシを一匹100円〜200円で買い取ってくれる怖いオジサンがいた。それは祭りの夜店で500円〜1,000円で売られる。
- 主婦に斡旋される内職の単価が異常に安い。うちのオカンも一時期頑張っていた。
- 知らないオッサンに説教される。ただそれは大人の義務のような一面があった。そこら辺で焚き火などしていると、畑仕事中のジジイにゲンコツされるなど。
- 見知らぬ家にお願いしてトイレを借りることが出来た。これは田舎ならではかもしれない。
- 家の玄関の鍵は常に開けっ放し。(※実家はいまでも施錠していないらしい。)
- 公共スペース、交通機関など全域で喫煙が可能だった。そこら中、タバコの煙でむせ返るような状況。スーパーなど、くわえタバコで買い物する輩もいた。(※それもそのはず、店内のいたるところに灰皿が設置されていた。)
- 週に一回くらいテレビでおっぱいが見れた。
などなど。
良くも悪くも、人間力に溢れた昭和という時代は面白すぎた。
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